体験談その1.海外にて日本語を教える際の姿勢について

国際結婚して海外在住の、30代後半兼業主婦です。現在は全く別の仕事をしていますが、現地の若者にボランティアとして、日本語を教えた経験があります。

その当時、私自身現地語をかなり高いレベルで習得していると(大学の一般コース適用程度)自覚していたのですが、日本語を教える際に構造的なところで疑問を投げかけられ、明確かつ簡素な指導で切り返せない…という場面が多くありました。

例えば、簡単な文を作る段階で、多くの生徒がほぼ同じような接続詞の間違いをしています。「●語(現地語)での考え方はいったん脇に置いてみて。今は日本語ですから。」と再三注意を繰り返したのですが、どうしてもそれが直りません。

しまいには「だって●語はこうなんだし!」と強調しつつ抵抗(?)してくる生徒たちが出始めたので、これはまずいと思って文化面での話に戻ったのでした。

私が手伝った場所は、言語より日本文化の理解に集中させていた場だったので、さほどの明確な授業展開は期待されてはいませんでした。

若者たちが興味を持っていた分野に関しては、個人的に深い造形があったため喜ばれたので事なきを得ましたが、「やはりこれでお金を取るようなことは絶対にできない。本当に言語としての日本語を教えるのであれば、現地語もさらに研究して上達させなければいけないし、また日本における資格を取ることも必須だ。」と、強く感じたのです。

後年知ったように、現在は「まるごと」など、教える側にも丁寧な指導を盛り込んだ教材やメソッドが存在しています。私のように、外国の人々と接する機会の多い人間を身近な「日本語教師」となし、多くの人に日本語と日本文化を知ってもらおう…という試みについては特に異論はありません。

ただ、せっかく教える/教わる機会があっても、教師の現地語理解が浅ければ、生徒の頭の中で日本語と現地語との構造的なギャップは埋まりません。その場合、残念ながらも納得のいかない状態で終わってしまうのでは…?という懸念をも感じました。

つまり、教師側は日本語を教えるための訓練をするのに併せ、現地語への造詣もたゆまなく深めていかなければいけない…と感じたのです。

私の友人は、東京の日本語学校で働いており、長いベテラン教師生活の中で「生徒たちの言葉を何カ国か使えるようになってしまった」と朗らかに笑っていました。

日本で生活しながら日本語を勉強する生徒たちなのですから、特に彼が彼らの母語をマスターする必要はありません。ですが授業での相互理解をめざした結果、彼は自然と他言語を習得する形となったのです。この話を聞いた時、薄給だ~と冗談めかしてぼやく彼に、私は真の「言語教師」の姿を見た思いがしました。

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